KNBBLOGのブログ

本の感想 介護 日々思ったことなど

疥癬にかかった母の介護についての覚書

 

※個人的な内容になります。病気に関しては、ネットなどで情報収集すると、余計不安になったり、曖昧な情報に混乱してしまいます。 必ずお医者さん、専門家に相談してください。

 

2021/05現在、デイサービスでもらった疥癬と苦闘中。

コロナ渦で世の中が大変な時に、運が悪かった。

 

 約2か月痒みの原因が疥癬かどうか不明なまま

5/24疥癬確定

デイサービス、訪問看護休止2週間程度と連絡

5/25 虫下し1回目

5/26 夕方37.0の熱 口調が弱い 食欲不振 マヒしている右手を握り込む

5/27 熱37.2 口調がより弱く 食欲無し 東名クリニックで発熱外来受診

5/28 食欲戻る 熱36.6 

5/29 姉と妹が片付けを手伝いに来てくれた。態勢を整えることができた。

5/30 洗濯物をコインランドリーで乾燥機にかけることにする(最低1日1回)

5/31 疥癬の受診2回目 予防治療を受けたかったがちゃんと説明できず

ケアマネに皮膚科のことを愚痴ると訪看と連絡を取ってくれ訪看再開へ

自分の痒みが疥癬によるものか不明 朝夕とシャワーを浴びる 手洗い多めにする 

オイラックスを塗る ことで予防する

6/1 訪問入浴 打合せ

6/2 訪問入浴1回目

6/3 訪問看護再開 理学療法士は休止継続 看護師のみ 虫下し2回目

6/5 訪問入浴2回目

6/6 右足の腫れは引いてきた 背中腰太ももに掻き傷はまだ多い

6/7 疥癬の受診3回目

丘疹が無くなっているようなら大丈夫とのこと

ケアマネと訪看に連絡 水曜日の訪問看護で確認して大丈夫なら来週から再開

※ここの皮膚科 俺の事を老人ホームの職員だと勘違いしているようだった

6/8 訪問入浴3回目

痒みは残っている様子 シーツ交換 着替えは継続 薬の塗布は痒い所のみ

6/9 訪問看護

背中、太もも、腕に痒みあり 素人目には原因不明 

母は痒い所を隠したがる 責められているように思うのか

6/10 シーツ交換 洗濯物の頻度を通常通りに戻す

痒みの訴えは減っている

6/11 訪問入浴4回目

自分の痒みや腫れに不安は残る

6/14  訪問歯科

6/15 デイサービス再開

7/9 コロナワクチン接種

 

2か月ほど前に、「同じユニットでお風呂を使っている人が疥癬だった」とデイサービスから連絡を受けた。その際、用心して診察を受けるよう勧められ、皮膚科へ行ったが、すぐに分かるものでもなく様子見。かゆみが増した、ということで2度診察を受けたが、その時には、疥癬か不明。

今月、痒い箇所が広がってきたので診察受け、疥癬の診断となった。

 

 疥癬(かいせん)は、ヒセンダニというダニが原因の感染症

皮膚の接触や、寝具やタオルの共用、雑魚寝などでも伝染る。

キャンプ場や宿泊施設でも、広がることがある。

顔や頭部以外どこでも広がる。猛烈なかゆみ。

皮膚の接触でうつる。

 

虫下し

かゆみ止めの飲み薬

塗り薬

 

清拭を毎日

薬を全身に塗布

 

50度以上の熱湯で10分以上か

乾燥機でもいいそう

 

介護者は手袋 手洗い 自分の感染リスクは高い 予防治療受けるか

 

感染症なので、デイサービス、入院棟のある病院などの集合施設は利用できない

訪問看護はどうか 清拭と塗布を手伝ってもらえないか

 

 

「ダニがいなくなる」ことで完治なのだろうけど

目に見えないもの 

全身を動き回るもの 

角質の下に潜むこともあるもの なので困難

 

疥癬が長期にわたる例もあるようだ

 

どうすれば治るという正解はない 地道にやるしかない

 

母はデイサービスでお風呂に入るので 行けない間 清拭のみなのがツライ

 

お風呂に入れれば 清潔にできる それが出来ないので 他の疾病や炎症などが心配

 

虫下しの後にまた 発熱 食欲が落ちるかもしれないので要注意

 

 

認知症 身体障碍それぞれ 疥癬のような皮膚感染症の対応は難しいのでは?

 

右半身マヒの母は風呂に入れないが疥癬では1日1回の入浴が推奨されている

皮膚の接触による感染があっても介護時にどうしても抱きかかえる必要がある

清拭などのときはベットの上に乗らないと拭けないところもある

介護者の感染リスクは高い

 

認知症

痒みによるイライラ 不安感 睡眠時間の減少などのダメージがある

暴言や反発などもあり得る

痒みを止めることという目的が介護者と一致してスムーズにいくこともあり得る

衣服や寝具などの消毒を嫌がる可能性がある

塗り薬の全身塗布を拒否する可能性

お風呂を嫌がる可能性

治療が遅れて重症化するリスクがある

 

 

疥癬性感染症として扱われていた歴史があるので攻撃や制裁を受ける可能性がある

集合住宅や田舎などではそういった噂に注意すべき

 

マスクや手袋などの防備をした状態で介護されると精神的にダメージを受ける人もいる

汚いもののような 触れたくないような扱いに傷つく

 

老々介護の場合はどうか

感染がピンポンのように続いてしまう可能性があるとのこと

洗濯ものの消毒 薬の塗布がしきれずに重症化するリスクと介護者への感染リスクが高い

 

大家族の場合

家族への感染拡大

感染者のスペース確保 洗濯物や寝具 寝所を分けることができない場合もある

性感染症と捉えて周囲に打ち明けられない場合も考えられる

 

 

ケアマネに相談して訪問入浴

訪問看護で清拭と塗り薬の塗布と

 

大きな病院で全部診て貰う方が良いかもしれない

皮膚科 外科で母の状態を説明しきれておらず薬をもらうだけになっていないか

ちょっと遠くても全部そろっているところでお願いした方が情報が共有されているので相談もしやすい

一区切りついた時点で皮膚科も東名クリニックに切り替えよう 

飲み薬の緑内障のリスク塗り薬のステロイドのリスクについて説明がないのはおかしい

治療の進め方 家族のリスク 

 

家族介護者の苦労については医師、ケアマネージャー、訪問看護師でも分かってもらえない。身体介護が必要だと手袋を必ずつけるというのは現実的でない。家族の感染リスクは高い。予防治療や家族介護者の予防は重んじられていない。

 家の地域で皮膚科医師の求人が載り続けているよう

通っているところ以外にはない あの皮膚科、医師不足みたい

 ※俺の事を福祉施設職員だと勘違いしていたようだ 家族が「自分も予防したい」と言うのと職員が言うのでは医者の対応も違うだろうから仕方ない 家族の予防の話を聞けなかったのは残念

 

 

家族は

一日に数回流水で全身流す

手洗いをする

乾燥機を使う

掃除機をかける

免疫力の弱いひとは近づけない

気晴らしをする させる

それ以外のことは手を抜く

 

 

注意点

 

過剰

当事者の隔離 

一切触れない 

距離を置く/置かせる 

潔癖症 消毒 ダニ対策 衣服やシーツ

恫喝 「伝染るから近づくな」 性病と決めつけて「汚い」

汚いからと風呂に入れさせない

恥ずかしいからと医療にかからない 相談しない

 

 

不足

衣服や寝具を別にしない 洗わない

肌が直接触れる

雑魚寝

手洗いをしない

風呂に入れない

掃除しない

知識不足で医療にかからない 相談しない

 

 後遺症 

痒みが残る 

ひっかいた傷跡

痒みに対しての恐怖感

潔癖症  

 

 

 

 

※何もまとまっていない覚書です。読みにくいものでスミマセン。

デイサービスなどに迷惑が掛かってしまいかねないので、地域は伏せています。

※治療に関しては必ずお医者さん、専門家に相談してください。

言いにくく 疑問なこと(家族介護者の憂鬱)

 母が通っているデイサービスで、とある感染症が出た。

感染症が出たのは、2か月ほど前の話だが、

先週病院に行って、母にも伝染っていることがわかった。

 

 おかげで、2週間ほどデイは休み。

 

 普通の介護に加えて、薬を塗ったり、清拭、着替えが頻繁になって、時間が取れない。

 

 家事が疎かになった。

 母に呼ばれると、少しイライラすることがある。

 ブログが進まない。

 本も読み進められない。

 通販の買い物が増えてしまった。

 ヤル気のブレーキがかかる。

 何も手につかなくなる。

 

 

 「できない」自分を、責めてしまう。

自分を責めるのは、どこかで「自分に期待」していたから。

そして、その「期待」は、きっと過剰だった。

いい歳したオッサンが恥ずかしい・・・。

 

 母を責めていないとしても、

「母のことで動けない自分」を、責めている。

母のことは、自分で選んだのだから、後悔のしようもない。

 

 一層、余裕が無くなっていくような怖さがある。

物事に圧倒されて、動けなくなるような弱さがツライ。

 

 そういうことが憂鬱になる。

 

 

 忙しさの合間のイヤなトコロは、ネガティブが入り込んでしまうこと。

ひっきりなしに忙しかったら、憂鬱にならないのに。

 

 (こんなこと、書けるんだから、暇も余裕あるのかも。)

 

などと、とりとめのない文章でスミマセン。

 

 

 5/27 追記

 

母が熱を出して 今日 ちょっと大きめの病院にいきました

皮膚の感染症 と 熱がある というダブルパンチ

ドライブスルー方式で診察 PCR検査は陰性

解熱剤を処方してもらいました

 

朝は食欲もなかったけど 家に帰ってから

シュークリームをパクパク食べてたので ちょっと安心

 

「痒い~」と言いながらうつらうつらしている母

一番ツライのは母自身なんだよなぁ

言いにくく 疑問なこと(家族介護者の性欲減退② 余裕-前編)

  まず、「性欲が無い、少ない」ことは ”おかしい” のか。

 

 人間の数ある欲求のうち、性欲だけを取り上げて ”おかしい” とは、言えない。

テストステロンの血中濃度だけでは、性欲のについての全てを説明することは出来ず、本人の主観が重要になる。「本人がどう思うか」という事柄を、客観的に判断するのは難しい。

 

 何らかの作用で性欲が減退することも、それが問題を引き起こすものでなければ、 ”普通の事” であり ”おかしくはない” 。

 性欲減退の及ぼす影響で、本人の心身や社会的な何らかの問題が発生したときには、 ”おかしい” と判断できる。 

 

 しかし、「介護によって性欲が失われる ”感覚” 」の発生原因を、追うことの意味はある。特有の作用があるならば、それを明らかにすることで、介護者への理解に繋がるはずだ。

 

 

 

 

 性欲の減退の理由で、多いのは「余裕が無い」ことではないだろうか。

家族介護者に「余裕があるか」と質問したときに、「ある」と答える人はきっと少ない。まずは、介護者の ”余裕” について考え、それが、性欲にどう結び付くか見ていきたい。

 

 余裕というものを、①時間、②精神面、③体力面、④経済力という4点から考えた。これらの要素が欠乏することで、思考や行動が阻害される。

 

 そもそも、介護が必要だという時点で、日常生活に何らかの障害が発生しており、助けが必要な状態だ。今までの生活を、一人で送ることが難しくなった、つまり、 ”余裕の要素” が減少したと言える。

 給与という対価が発生しない、家族による介護は、(他の多くのケア行為と同様に) ”自らの余裕の要素を差し出すことで、相手の不足分を補う” 意味を持つ。

 

 介護という、余裕を分け与える行為によって、要素が欠乏し、思考や行動が阻害され、更に余裕を失っていく。その悪循環の先に、性欲減退も起こり得るのではないか。

 

 

 

 

 私の日常の家族介護を用いて、余裕が無くなることの具体例を挙げていく。

 

 

①時間の余裕が無くなる

 「母から、いつ呼ばれるかわからないので、時間を作れない。」

 「こちらが、眠っている時、用事がある時でも中断しなければならない。」

といったことが、日常的で、時間に余裕を持つことができない。

 

 母の立場から考えてみる。

右半身マヒで、自分の力だけでは、起きること、動くことができない。

高次脳機能障がいの影響で、自分の状態、状況が判断できない場合がある。

 

 この条件で、例えば「お腹が痛い」とすると、

”自分の力で起きて、薬を飲みに行く、トイレに行くなどの対処ができない”

”何故お腹が痛いのか、今どこにいるのかわからなくなり、怖くなって人を呼ぶ”

ということが起こりえる。その際、母自身に余裕があるとは思えない。

 

 余裕が無くなった母は、私を呼ぶだろう。

 そして、私は、介護に時間を使う。母のために余裕を差し出す。

 

 これは、私には、予測が難しい。

その為に、 予測を立て、予定を組み込むような時間管理ができない。

結果「自分の時間の捻出」ができず、「時間が無い」または「時間の余裕が無い」と感じる。

 

 私の場合、このように、時間のコントロールが困難になり、余裕が無くなる。

 

 

②精神面 気持ちの余裕が無くなる

 

 

 ある程度、介護がある生活に慣れていても、気持ちの余裕は無くなることがある。

 

 2021年1月、コロナウィルスの影響で、母の通うデイサービスが、休業となった。

期間は、ほぼ、1ヶ月。突然のことであり、デイサービスの機械浴で、お風呂に入れてもらっていたのもあって、困り果てた。

 週2回の訪問介護も、休みとなり、頼れる場所が無くなってしまった。

 デイサービスや訪問介護の時間は、自分の休息や家事、買い物などに充てており、その調整ができないことも重荷に感じた。その間の、 ”気持ちの余裕は、少なかった” ように思う。

 母も、デイサービスが無い日々が続くことや、私の焦った様子を見て、不安はあったのかもしれない。しかし、私には、それを伺う余裕も無かった。

 

 介護をすることは、生活の上で、常に気遣う相手がいることを意味する。

相手を観察したり、危険を予測したり、離れている間も状態や状況を考え、次に介護が必要となる場面を想定する。認知能力に負荷が多くかかる行為の一つである。

 

 介護による負荷を抱えた状態では、突発的な出来事や、日常のトラブルが重なることでも、ダメージを受けやすい。相対的に負荷を大きく感じてしまうのだろう。

 例えば、通院とデイサービスなどのスケジュールを考えている時に、トイレの失敗があって、訪問販売員などが来たりすると、その瞬間「いっぱい」になる。それが、回復する前に、何か別のことが起きたら、怒りや焦りが出てくるように思う。(私は、そういう時、どのように認知負荷が起こっているか考え、冷静になれるようにしている。)

 

 精神面の負担、認知能力の負荷は、数値化できるものではないが、介護者の気持ちの余裕は、相対的には少ないのではないだろうか。

 

 逆に、母の立場から考えると、何か介護を受けた際に、その切迫した状態からは解放される。しかし、介護行為を受ける前は、問題があっても、自力で解決できない苦しさがあり、何かあるたびに、助けを呼ばなければならないことの重圧もある。要介護者が、気持ちに余裕を持つのは難しい。

 

 私の介護に頼る母は、 ”普通よりも” 気持ちに余裕を持てる状態ではなく、介護を担う私も、同様に ”普通よりも” 気持ちに余裕は無いのかもしれない。 

 

 

 

 

 

※後編に続きます

  

 

 

 

言いにくく 疑問なこと(家族介護者の性欲減退①)

 言いにくいことではある。一般的なことは言えない。

が、家族介護者の性欲は減退しやすいかもしれない、 

そういう疑問を持った。

 

 私自身が、高齢の母を介護する家族介護者。

性欲はゼロではないが、かなり減退したという実感があり、

介護と性欲減退の因果関係も考える。

 

 「その暇がない」

 「その気がなくなった」 

というような介護者のツイートは、見たことがある。

私個人の問題ではないのかもしれない。

 

 そういえば、介護が始まる前から、

金銭的な問題で、夜の遊びには行っていない。

人間的な問題で、長い間パートナーがいない。

  そして、介護が始まって以降、

なけなしの性欲での、自慰行為も無くなった。

年齢もあるけれど完全にしなくなった。

なんというか、その気が起きない。

 

 いつ母からの呼び出しがあるかわからないので、

それどころではない、ということもある。

疲れるからムリ、というのもある。

やっぱり、気分じゃないから、というのが大きい。

そのための行動を起こそう、なんて気がしない 。

 

 「おじさんだから」、ということなのか。

男性更年期障害なのだろうか。 

自分の場合は、そうかもしれない。

 

 しかし、若い世代の介護を担っている人が、

その気や気分を無くしていたら問題ではないか。

 

 私個人の問題なら、病院なりカウンセラーに頼ればいい。

しかし、”介護者”の声が大きいとは言えない今の社会では、

そういう悩みも、誰の目にもとまらないままに、搔き消えてしまう。

 

 

 性欲減退の原因が、介護ならば、 

介護者支援に含まれなければならないが、

そのような資料を検索しても見つけられなかった。

 

 すでに、研究されているかもしれない。

まだ、表には出てきていない可能性もある。

 今のところ、被介護者の性欲に関するものが、

ようやく一般的になってきた、という印象だ。

 

 資料はなく、研究も進んでいるか不明。

私個人の、想像するところでしかない。

 

 

 しかし、性欲も介護者について語っていく上で、

避けては通れない事柄のように思える。

 

 

 

  

 介護者に限らずとも、

人間の三大欲求である性欲は、

その人の人生に関わる、大切な欲求である。

 

 人類文明がここまで発展したことにも、

少なからず、性欲の影響はあるはずだ。

 

 例えば、文化というものは、

多くの欲がせめぎあって形作られた側面を持つ。 

小説、演劇、音楽などでは、性欲を昇華した名作があり、

現代では、割とストレートに表現したものもある。

 そういった作品にとどまらず、

ありとあらゆる生活の一端にまで、文化は染みついている。 

 

 人の目に触れ、音を奏で、周りを取り囲むものが、 

性欲を肯定し取り込んでいる。 

「性欲を無くす」ことの意味はとても重い。

 自己肯定感の低い状態ならば、

圧し潰されかねないものではないだろうか。

 

 社会における、他者との関りにも影響はある。

性欲があることが”普通”とされる場において、

それが無いことは ”普通ではない”、

”関わりにくい”、とされてしまう危険をはらんでいる。

 

 フィクションの世界でも、

性欲が刺激されるようなものが多い。

経済の大きな部分を担うのが、性欲なのだろう。

 デジタル機器の発展にアダルトコンテンツが寄与した、 

という説もあるくらいだ 。

 

 詮索すべきことではない、が、

若い世代の家族介護者のことが、気にかかる。

 彼らの将来に関わってくる話になる。

介護が原因の問題を抱えて苦しむ若者は、

出来るだけ、少ない方がいいと思っている。 

 

 

 

 

 

 介護を起因とする性欲の減退はあるのか、

はっきりとしたことは言えない。

しかし、追求すべきだと考える。

 

 少子高齢化対策という目線ではなく、

人間らしい、尊厳、の視点で、 

介護者の性欲は、語られていかなければならない。

 

 団塊の世代後期高齢者になる2025年には、

在宅介護が激増するようだ。

つまり、家族介護者は今より多くなる。

 

 マスメディアによる、情報の単純化によって、

「家族介護者は~」と一括りにまとめられ、

こういった問題は、見えにくくなる可能性が高い。

 

 このセンシティブな疑問は、

慎重に扱っていく必要があるものだが、

介護者の一人として、少しづつ掘り進めていくべきと思っている。

 

介護者として評価を得たくなる

 介護者に提供されるような

在宅介護の評価はないものだろうか 

そう思うことがある

 

 他者からの評価を得ると

自分では気付けなかったものが

照らされるという副産物もあり

それでQOLクオリティ・オブ・ライフ『生活の質』)

を向上させることもできる

 

 そして 

介護者の過失による事故や

痛ましい事件などへの予防効果も期待できる

 

 一家族介護者として

外側の視点による評価は必要なものだと言いたい

 

 

 

 

 自分は在宅での家族介護者 

家で要介護5の母と暮らしている

介護と暮らしが直結する環境だ

 

 

 SNSやこのブログでも 

介護の事はたまに話題にする

が それらは私自身の主観が多い 

 

 また 自身が行っている介護については

客観視する機会はとても少ない

 

 以前 第三者に見てもらおうと

ケアマネージャーや

訪問看護のひとに

「うちって大丈夫ですか?」と

聞いたことがある

 

 いただいた返事は

「大丈夫じゃないですか?」だ

 

 それはそうだ

「ダメじゃないっすか?」

と気軽に答えてはくれないだろう

(ちなみに ケアマネージャーや訪問看護の方は

 とても親切で いつも大変お世話になっている)

 

  やっぱり心配は消えない

  

 在宅介護を始めて

数年たった

なんとかできている部分と

なんともならない部分がある

 

 一応やってこられたのだから

及第点・・・のはず

 

 

  

 

 こうやって悩むのは

自信が無いからだが

もう一点

基準が分からないことも大きい

 

 介護を始める際には

関連する本を読んだ

 

 どの程度の準備が必要か

知りたかった

 

 実際に何をすることになるか

勉強すべきと考えた

 

基準が欲しかったからだ

 

 基準をもとにすると

判断のブレが減少する

ブレずに安定した介護が可能になる

  

 それは 今でも 何年経とうとも必要だ

安定した介護でありたいから

ブレていないかの確認は必要なのだ

 

 ブレる危険性はいつでもある

慣れてきて 慢心したときの方が多いかもしれない

 

 

 

 

 そこで表題に戻り

評価欲しいなぁということになる

 

 日本看護協会

多職種情報共有シート というものがあった

アセスメントを効率よく行うために開発されたものらしい

 残念ながら家族介護者が参加する前提ではない

 当事者と家族はアセスメントを受ける側になっており

共有されることもなさそうである

 

 確かに家族介護者は専門職ではない

しかし 家の中での介護の関りは多い

被介護者に一番関わる存在だ

最も重要な介護者と言えなくもない

 

 総合的に見て自分の母の介護に関しては

現時点で世界で1番の専門家は自分であろう

責任が分散されていない

母のための専門の介護者だ

 

 素人 兼 専門家だからこそ

客観的な評価が必要になる

 

 

 

 

 評価のカタチはこのような物が助かる

評価軸  安心  安全  持続性

評価者  当事者 介護者 第三者

評価対象 経済  人的  環境

といったものだ

 

当事者が主観的に環境について安心できるか

 

また 介護者の人的労働力は 

当事者から客観視して安全と判断できるか

 

など評価者によって視点が変わってくるはずだ

その気付きが得られるのはありがたい

 

 評価軸 持続性は後から考えたものだが

壮年期の介護離職 ヤングケアラーの問題から

介護が持続できるか 

持続した場合

介護者の人生設計にどのような影響があるのか

明らかにしていくことが必要ではないかと気付いて付け足した

明確になれば介護者支援が進んでくれるはずだ

 

 

 

 

 介護者として評価が得たくなるのは

QOLを向上させ 事故などを予防し

判断基準をもとにしたブレのない介護を行えるようにし

介護者への支援を期待するから

 

 なにより自分の介護が

被介護者の役に本当に立っているのか

心配になるから

 

 母の介護をする50間近の中年男性は

「自分で判断するのは難しいから教えてください」

と言いたいのだ

文章を書くのって難しい

 久々にブログを書いてみてつくづく実感するが

文章を書くのって難しい

 

 何が難しいのかというと

「いい文章が書けない」

「書いて良かったと思えない」

「納得できる文章ができていない」

 

 つまり 

「自分の文章ってヘタクソだ」

ということだ

 

 

 

 

 そもそも 1年近く放置したブログを再開するに至ったのは 

とある「文章を書くことついての本」に出会ったから

  

 その本が 面白い

 文章を書くことを職業にしている人が

手の内を見せてくれるのだ

それどころか 頭の中

作業中の思考 考え方を披露されている

 

 読んでみて

とても 腑に落ちたような 身に染みわたったような

なんだか 文章のイロハが身についたような気がして

無性に文章が書きたくなる

そんな魅力あふれる1冊だった

(その本は紹介できない

 この程度の文章力しか引き出せないと勘違いして欲しくないから)

 

 その気になっているうちに 

ひとつ文章に向き合おうかと

放置していたこのブログを 叩き起こしてみた次第である

 

 

 

 

 

 

 しかし やっぱり ヘタクソだ

 

 書いている途中は楽しんでいた

文章を考え 作るのは 面白い 

 

 でも 読み返す気にならない というか

投稿後に 読み返すのが ツライ

 

 気恥ずかしい

「この文章を読んでどう思われるか」が頭を巡る

誰かの呆れたような声が聞こえてくる

 

 できたての黒歴史をご賞味いただくシェフになる

「味見した?」

「これ何? 料理?」と聞かれても

押し黙ったまま 俯いてしまう

お客様の顔なんて もう見れない

 

 

 

 

 

 

 

 今までなら

そこで「や~めた」となっていたが

先の素晴らしい本は

自分をその先の未知の世界に誘いかけてくる

 

 

 

 そもそも 

楽しく書いていたものが

なぜ ヘタクソに見えるのか

 

 

 

文章を書くことは

思ったことなどを

文字として

頭の外に出すことである

 

文章にした途端

「私の想い」は「文字という別次元のものに翻訳される」

紙なり パソコンなり スマホなり 

の上に移っていって 私から離れてしまう

インフルエンサーがよく言う「アウトプット」のカタチのひとつだ)

 

 私から離れた その文章を読むのは誰だろう

一番確率が高いのが 私

 

「書いた自分」とは別の

「読む自分」がいる

 

楽しく書いていたのとは違う 自分

いうなれば批評家の自分だ

 

 こいつが本当に嫌な奴で

せっかく書いたものを

「つまらない」

「読む気が起きない」

「呆れる」

「ほかの人が読んだら怒っちゃうなぁ

時間返せとか言われるよなぁ」

などとクレームをつけてくる

 

ネチネチと

厭味ったらしく

いつまでも

 

仕舞いには

「ヘタクソ」の烙印まで押してくれる

 

 

 

 楽しく書いていた自分はどうだろうか

実はこいつも 批評家に負けず劣らず 厄介

 

 文句を言われると 

すぐにふてくされる

すねる 

いじける 

イヤになっちゃう

 

反省しようとか

次はちゃんとしようとか

なかなか思わない

 

「どうせ いくら頑張っても ダメだ」とばかりにサボりだす

 

 次に文章を書く時も

批評家に言われたことを直視せずに

「上手くやろう」としだす

 

 どこかから拝借した綺麗な文章を

無理やり入れ込んだりして できたつもりになる

 

 当然 文章はグチャグチャだ

 

そうすると あの批評家が また・・・

 

 

 

 

 

 彼らの いつもの この困った馴れあいは

どうすればいいだろうか

 

 

それはことのほか簡単だった

文章にすればよかった

 

ヘタクソな文章を書く自分と

嫌味な批評家の自分の関係性を

文章にして

客観視すればいいのだ

(今ちょっと楽になった自分がいる)

 

 そうすることで

何ができていて

何ができていないのか

何をすれば ここを乗り越えられるのか

考えることもできてくる

 

 

 

 文章を書くのって難しい と思う自分がいる

だが 

文章を書くのって楽しい と思う自分だってここにいる

 

嫌味なアイツもここにいるし

できてないことが山のようだけどさ・・・

 

サスティナブルなオムツを想像する

オムツや尿取りパッドにも

「環境にやさしい サスティナブルなものを」

という波が押し寄せてきている

 

SDGsという全世界規模の取組から考えれば当然だ

 

すでに取組を始めている企業もある

 店頭に回収BOXを設置し

使用済みオムツを回収し

リサイクルしていく 

 

しかし 

環境に対して サスティナブル=持続可能

なものが

介護者に対して サスティナブルになるかどうか

 気になるところだ

 

 

 引っかかっているのは 介護者の負担

リサイクルできる オムツ 尿取りパッド は回収が必要なので

仕分け

保管

搬送

しなければならない

 

 手間が大きい

 

環境の事を考えて我慢しろと怒られそうだが

 

オムツを使う場面は

赤ちゃん 

高齢者 

障碍者など

ケアを必要としている人がほとんどだろう

 

家族へのケアは 無償の労働と考えられがちだ

日本では特にその傾向 が強い

 

無償の労働なので

過酷かどうかの数値化がされていない

実態は分かりにくいものだ

 

個人的には

手間を増やされるのなら

「いやぁ 介護って大変なもんなんで…」

と言い訳して逃れたい気持ちもないわけではない

 

 が

介護やケアのネガティブ面を強調するのも嫌なので

言い訳しないで済む方法を考える必要が出てきた

 

 

 

 

 

ということで 試案してみた

 

 

①オムツの構造

一番上の部分 直接排せつ物に触れる部分を分離可能にする

分離した部分は廃棄し 水分を多く含んだ部分のみをリサイクルする

 

水分のみを透過するフィルターはすでに存在している

途上国での水問題解決に期待のかかっている発明品だ

 

安価になれば使い捨てることもできるだろう

 

 

②布製オムツの復権

使い捨ての紙パンツ オムツではなく

布製のものを使う

もちろん尿取りパッドも布製にしよう

 

 

これには 専用の洗濯機の開発が必要だ

できれば大便が付いたものも そのまま放り込めるといい

ケアの負担の一部が解消される

 

しかし サスティナブルなものでなければ意味が無い

水の使用量は少なければ少ない方がいい

 

排せつ物はどうしようか

下水に流しては環境に悪影響だ

乾燥させ固形肥料にできると素晴らしい

 

 

 

③オムツが必要なくなる

今や遺伝子治療などで高齢化が

問題ではなくなる未来も描かれている

そこでは排泄が困難な人は少ないはずだ

 

未来の食料問題も大きい

人々が食べるものが足りなくなるというのだ

そうなってくると排せつ物が少ない

”効率的な食糧”が登場する可能性もある

 

それらが相まって”オムツ”が存在しない

資源の有効活用がより確実となった世の中がくるかもしれない

 

 

 

夢物語のような話だが

①‐②-③の順で起こってもおかしくない

 

 

オムツや尿取りパッドは

今後 確実に大きな問題として取り上げられ

その時には 新たなビジネスが生まれてくるはずだ

 

 

 

 

オムツはネガティブではなく

チャンスを創造できるもの 

と想像する