言いにくく 疑問なこと(家族介護者の性欲減退② 余裕-前編)
まず、「性欲が無い、少ない」ことは ”おかしい” のか。
人間の数ある欲求のうち、性欲だけを取り上げて ”おかしい” とは、言えない。
テストステロンの血中濃度だけでは、性欲のについての全てを説明することは出来ず、本人の主観が重要になる。「本人がどう思うか」という事柄を、客観的に判断するのは難しい。
何らかの作用で性欲が減退することも、それが問題を引き起こすものでなければ、 ”普通の事” であり ”おかしくはない” 。
性欲減退の及ぼす影響で、本人の心身や社会的な何らかの問題が発生したときには、 ”おかしい” と判断できる。
しかし、「介護によって性欲が失われる ”感覚” 」の発生原因を、追うことの意味はある。特有の作用があるならば、それを明らかにすることで、介護者への理解に繋がるはずだ。
性欲の減退の理由で、多いのは「余裕が無い」ことではないだろうか。
家族介護者に「余裕があるか」と質問したときに、「ある」と答える人はきっと少ない。まずは、介護者の ”余裕” について考え、それが、性欲にどう結び付くか見ていきたい。
余裕というものを、①時間、②精神面、③体力面、④経済力という4点から考えた。これらの要素が欠乏することで、思考や行動が阻害される。
そもそも、介護が必要だという時点で、日常生活に何らかの障害が発生しており、助けが必要な状態だ。今までの生活を、一人で送ることが難しくなった、つまり、 ”余裕の要素” が減少したと言える。
給与という対価が発生しない、家族による介護は、(他の多くのケア行為と同様に) ”自らの余裕の要素を差し出すことで、相手の不足分を補う” 意味を持つ。
介護という、余裕を分け与える行為によって、要素が欠乏し、思考や行動が阻害され、更に余裕を失っていく。その悪循環の先に、性欲減退も起こり得るのではないか。
私の日常の家族介護を用いて、余裕が無くなることの具体例を挙げていく。
①時間の余裕が無くなる
「母から、いつ呼ばれるかわからないので、時間を作れない。」
「こちらが、眠っている時、用事がある時でも中断しなければならない。」
といったことが、日常的で、時間に余裕を持つことができない。
母の立場から考えてみる。
右半身マヒで、自分の力だけでは、起きること、動くことができない。
高次脳機能障がいの影響で、自分の状態、状況が判断できない場合がある。
この条件で、例えば「お腹が痛い」とすると、
”自分の力で起きて、薬を飲みに行く、トイレに行くなどの対処ができない”
”何故お腹が痛いのか、今どこにいるのかわからなくなり、怖くなって人を呼ぶ”
ということが起こりえる。その際、母自身に余裕があるとは思えない。
余裕が無くなった母は、私を呼ぶだろう。
そして、私は、介護に時間を使う。母のために余裕を差し出す。
これは、私には、予測が難しい。
その為に、 予測を立て、予定を組み込むような時間管理ができない。
結果「自分の時間の捻出」ができず、「時間が無い」または「時間の余裕が無い」と感じる。
私の場合、このように、時間のコントロールが困難になり、余裕が無くなる。
②精神面 気持ちの余裕が無くなる
ある程度、介護がある生活に慣れていても、気持ちの余裕は無くなることがある。
2021年1月、コロナウィルスの影響で、母の通うデイサービスが、休業となった。
期間は、ほぼ、1ヶ月。突然のことであり、デイサービスの機械浴で、お風呂に入れてもらっていたのもあって、困り果てた。
週2回の訪問介護も、休みとなり、頼れる場所が無くなってしまった。
デイサービスや訪問介護の時間は、自分の休息や家事、買い物などに充てており、その調整ができないことも重荷に感じた。その間の、 ”気持ちの余裕は、少なかった” ように思う。
母も、デイサービスが無い日々が続くことや、私の焦った様子を見て、不安はあったのかもしれない。しかし、私には、それを伺う余裕も無かった。
介護をすることは、生活の上で、常に気遣う相手がいることを意味する。
相手を観察したり、危険を予測したり、離れている間も状態や状況を考え、次に介護が必要となる場面を想定する。認知能力に負荷が多くかかる行為の一つである。
介護による負荷を抱えた状態では、突発的な出来事や、日常のトラブルが重なることでも、ダメージを受けやすい。相対的に負荷を大きく感じてしまうのだろう。
例えば、通院とデイサービスなどのスケジュールを考えている時に、トイレの失敗があって、訪問販売員などが来たりすると、その瞬間「いっぱい」になる。それが、回復する前に、何か別のことが起きたら、怒りや焦りが出てくるように思う。(私は、そういう時、どのように認知負荷が起こっているか考え、冷静になれるようにしている。)
精神面の負担、認知能力の負荷は、数値化できるものではないが、介護者の気持ちの余裕は、相対的には少ないのではないだろうか。
逆に、母の立場から考えると、何か介護を受けた際に、その切迫した状態からは解放される。しかし、介護行為を受ける前は、問題があっても、自力で解決できない苦しさがあり、何かあるたびに、助けを呼ばなければならないことの重圧もある。要介護者が、気持ちに余裕を持つのは難しい。
私の介護に頼る母は、 ”普通よりも” 気持ちに余裕を持てる状態ではなく、介護を担う私も、同様に ”普通よりも” 気持ちに余裕は無いのかもしれない。
※後編に続きます